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2011-01-24

『アイ・アム・サム』 【ブログDEロードショー】

こんばんは、ロッカリアです。
今回は落書きが間に合いませんでした……。

サム2

この映画は僕の苦手な作品です。(苦手、と言うだけで、決して嫌いではない。ミッシェル出てるし…)
そして、この映画は昔から物議を呼ぶ作品としても有名です。
今回で2回目の視聴となるこの映画、以前に見た時はお気に入りのミッシェル・ファイファーが出ていると言う、ただそれだけで見ました。
その時から、2回目は無いな、と思っていたんですが、意外にも今回見る事になったので、今回は自分なりに、どうして苦手なのか?と言う事を整理したいと思います。

基本、いい映画だと思う。
皆さんが言っているように、親子の絆だとか、周囲の人の温かい目だとか……。
僕も基本、そう思う。
ただ、あの瞬間が許せないのだ、この映画は。

それは冒頭から15分も経った頃、今まで友達のように遊んでくれていた自分の父親が、他人のお父さんと少し違うと思い始める。
友達のようなパパ、実は知能が低いんだ……と、子供が親の知能を追い越して行くあの瞬間。
これが悲しすぎる。
言い換えれば、精神的に親と子の立場が入れ替わると言う事。
わずか7歳でその事を突き付けられた子供の心情を想像するだけで胸が痛くなる。
これは映画だから、と言うのは簡単だが、きっと現実にもこんな事が有るように思えてならない。
この瞬間が苦手なのだ……。
映画として楽しめないんだよなぁ。
そもそも、事の発端は、ルーシーが描いた絵が、精神状態を表していると言って、「サムには子育てができない」と言う結論に達している。
イコール福祉施設行……。
なんで?
絵だけを見てそんな事決めちゃうのか?
例えば、転ばぬ先の杖的な発想だとしても、虐待と言う事実も無く、また、ルーシー自身が学校に助けを求めた訳でもないのに、「君はバカだから子育てができない」と言うのは部外者の傲慢に過ぎない。
ここが妙に納得いかない。

それともう一つある。
ビートルズ・ナンバーの使い方、だ。
オリジナルは版権が高過ぎて使用できず、カバーをBGMに特化して使っているが、それがぶち壊している。(断っておくが、僕はビートルズ・フリークである)
ビートルズのオリジナルは、流れた瞬間にそのシーンの空気を一変してしまうパワーがある。それを安く済ませるためだけにカバーに走った姿勢は、少しおかしいと思う。
それなら、中途半端にカバーなんか使用しないで、オリジナルの曲を作った方が良かっただろう。
ビートルズ・ナンバーを使う意味が良く分からない。(使う意味が何処にあったんだろう…、謎だ…)
ハンス・ジマーよ、どうした?と言いたい!(このビートルズ・カバーについてのマニアックな話は近々海賊盤にアップするのでよろしく)
映画なんて、所々を突っついても仕方ないと思うが、最後にあのラストについて言いたい。
みんなが幸せになるあのラストは、この映画の流れを追って行くと実に不自然で、ハリウッド特有の試写会における観客の反応、プロデューサー、配給会社の意向が如実に反映されているように思う。(無難に、全ての人に受け入れられる映画)
別に、ハッピー・エンドを否定する気はないが、このラストでは、数ある他の映画と何ら変わりはない。
早い話、めでたしめでたし、である。
70’Sの映画を中心に見てきた僕だけかもしれないが、今回そんな事を強く感じた。

いい終わり方だ、と思う人。
なんだ、結局はそこに落ち着くのか、と思う人。
きれい事だろ……、思う人。
勿論、正解なんてあるはずがない。
映画は見た人がそれぞれ自分の思うように感じて、見ればいいんだ。
だから映画は面白い!
そして、色んな人の意見がブログ上で同時期に交差し合う。
これこそが【ブログDEロードショー】の根幹であり、続けて行く意義である。(だって楽しいでしょ、映画について色んな意見が聞けて)

先に述べた通り、この映画は公開時から僕のような人間から物議を呼んだし、今も見る度にああだ、こうだと意見が飛び交うのがこの映画の宿命見たいな所がある。

そう言う意味において、今回この映画をチョイスされたワールダーさんは、実に良い選択だった思います。
そして、どうもお疲れ様でした!

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2010-11-09

『遠い空の向こうに』 第14回【ブログDEロードショー】

こんばんは、ロッカリアです。
ん~、パソコンの調子が少し怪しいのが気になりますが、何とかなだめすかして……。
さて、日曜日の午後に見ました。

ヴァイオリンの美しいソロの旋律と、生活感あふれる炭鉱の町の、荒涼とした景色が、それは見事なコントラストをかもし出しているオープニングが秀逸だ。
このプロローグから、全編を通じて「対比」と言うテーマを浮かび上がらせて見せる。
それまで、宇宙などとは全く無縁のホーマーが、夜空を感動的に見上げ、希望と夢を一気に宇宙へと運んで行くスプートニク。
だが、中盤では一転して、絶望感と一緒に地下へと降りるホーマーの目にもスプートニクが映る。
同じ人工衛星を見ているはずなのに、それを見る人間の心しだいで、ある時は希望に、ある時は絶望に見えて来るから不思議だ。
父と息子の対比。兄と弟の対比。地下と宇宙等々……。
これらの対比は時に対立した形で見られる。しかし、全ての対比はラストに向かう行程で、一つに溶け合って行く事に気付かされる。
登場人物の4人はひとまず置いといて、その他の登場人物の性格が、前半と後半では真逆の性格に変わっている事に気付いただろうか?
校長は、火災の時には犯罪者扱い。だが後半では……。
ホーマーのお母さんは、最初は壁にボ~としながら絵を描いているような人だったのに、後半ではダンナに強い口調で……。
夢と希望を抱かせ、頑張れとささやき続けたライリー先生だったが、実は……。
父や兄にしても、前半と後半では真逆に……。
これに、見事にはまったのが僕だ。
「何だ~こいつ!感じ悪~!」と見ていると、後半では「何ていい奴なんだ~!」の真逆に……。
要するに単純なんだろうなぁ……。
この映画を見るのはおそらく4、5回目ぐらいだと思うが、今回こんな自分に気が付いた。
何度も言うが最近50歳になった……。
で、この映画を見ているとホーマーの目線、つまり子供の頃の感情が蘇り、父親に反発する心が顔を覗かせる一方で、父親の目線、つまり、違うんだよ、本心はそんな事じゃないんだよ、と息子をなだめるような感情とが複雑に交錯するんだ。
戸惑う一方で、泣ける場面では他の人の2倍は泣ける事に気が付く。(お得…?)


img152-1.jpg


個人的にも昔から宇宙と言うものに人一倍関心があった。
映画もとーぜんSF映画が好きになって来るし、UFOだって、まあ信じてる。
小6の時には理科部の部長で、皆既月食の日に、みんなで校庭から月の観察をした事だってある。
だから分かる事がある。
ホーマーが初めて夜空を横切るスプートニクを見た時に、小さく「ワォ…」と呟く。
この「ワォ…」は、憧憬と感嘆、夢と希望が一気に込み上げて来た時の「ワォ…」なのだ。
実はこの「ワォ…」が、歳を重ねるごとに減って来ているように思う。
そりゃ、旅や何かで素晴らしい景色を見た時には近い感情が湧く事だってあるが、日常生活では殆ど無い。
驚きや感動と言うものに慣れてしまったのか、或いは鈍感になってしまったのか……。
この映画は高校生の4人組が話の中心にある。
『スタンド・バイ・ミー』を連想させる機関車のシーンもあって、違う意味で郷愁を誘う。
この4人は、なんだかんだ言いながらも全編を強い絆で走り抜ける。
この4人は、まるで大空にまっすぐ飛んで行くロケットのように、この時代を生きているように見える。
ロケット・ボーイズと言う原作は、そう言う意味でも上手いなぁ。((アナグラム、つまりロケット・ボーイズの文字を分解して組み直すと、オクトーバー・スカイ(原題)となるあたりもお見事!))
映画には、見る度に新しい発見や感情の変化に気付かされ、驚かされる事がよくある。
その度に僕はこう呟くことにしよう。
「ワォ…」と……。

たそがれピエロさん、今回はお疲れ様でした。と同時に、いい映画を選んでくれてありがとう!


2010-10-04

『アマデウス』 第13回 【ブログDEロードショー】

こんばんは、ロッカリアです。

この映画の一般的な評価。
「宮廷作曲家アントニオ・サリエリが嫉妬からモーツァルトを破滅させる話」と言うのだが……。
実は今回この映画を見るまで、僕もこの程度の認識だった。ところが……、50歳を前に観たこの映画。
その様に見えて来なかった。

さて困った……。

映画を見出してすぐにそんな感情が沸き起こった。
冷静に考えれば考えるほど頭を悩ます。
まず、明らかに痴呆扱いされた老人サリエリが、オープニングで自殺未遂……。
やがて精神病院に入れられたサリエリの元に、「懺悔をなさい」と神父が登場。サリエリはモーツァルトを殺した、と告白……。
これらは史実とは全く異なる。広く一般的にモーツァルトの死は病死、と言うのが定説で、サリエリ自身もモーツァルトを殺すほどの殺意を抱いていたなどと言う事は文献からも逸脱している。
この映画はミステリーなんだから、大前提の下にモーツァルト暗殺、音楽で言うところの主旋律が必要だ、と言う感じか?
いや違う。
進んでいくうちに、ミステリー色は徐々に薄れて行く。それどころか、父親の亡霊を恐れている。モーツァルトの精神も、悪妻コンスタンツェと薬によって破錠して行く。
明らかに狂っているサリエリが神父に語る、モーツァルトに関する数々のエピソードと、自ら神と対等する思いと敵対心。(明らかに狂っていると僕が言うのには根拠があって、宮廷楽長時代と目の動き黒目の位置が違う。これは巧みな演技力による演出だと思うからだ)
これらは一体何のために語られているのか?
この映画の到達点とは一体何なのか?到達点……。

imgアマデス-1

(落書きに少し時間がかかりアップ遅くなりました。修行中ではありますが、
【ブログDEロードショー】には掲載したかったので…)


共同墓穴に捨てられたり、レクイエム作曲途中で病に伏せたりなどは史実通り。なのに、肝心な事を触れていない。「モーツァルトは毒殺された!?」と言う根拠になった、彼自身が妻に言った「毒を盛られた……」と言うエピソードは、何故か描かれてない。
もう一度言おう。
この映画の到達点とは?
ラスト近く、モーツァルトが共同墓穴に、数多くの他の死体と一緒に無造作に捨てられる、そう、まさにそんな感じのシーンで確信した。
この映画は、モーツァルトの生涯を描いたのでもなければ、サリエリの生涯を描いたのでもない。
まして暗殺にスポットライトを当てたミステリーでも無かった。
サリエリを通して語られたこの映画は、モーツァルトの音楽こそは、神が創られた音楽なのだ、と言う事、つまりモーツァルトの音楽は神の音楽、と言う事を原作者のピーター・シェーファーは言いたかったのではないか。
いくら史実に基づいたとは言え、墓地のシーンは、音楽さえ残れば、人間はもう不要……と言うように見える。
歳を取り、まともな見方が出来なくなった、と言われても仕方が無いが、僕にはこれこそが、この映画の到達点じゃないのかと思った。

ヒッチ先生の採点表ピンク3-1
「映画と言うものは、どれだけ巧妙に観客を騙す事が出来るのか?と言う一面がある。この映画はそれに成功しておるようじゃ」


今回この映画に付き合って頂いた皆さんに、心より感謝しています。
ありがとうございました。


2010-08-24

新説、『ゴッドファーザー』論を語る…。或いは妄想クラブ…。

ゴッドファーザーこんばんは、ロッカリアです。

誰もが認める、映画史上に燦然と輝く名作。今更どんな形容詞で表現しようとも、この映画の凄さや価値は揺ぐ事無い映画。
組織と家族を守り抜くドン。予期せぬ出来事が、マイケルをファミリーの中核へと押し上げて、やがて父の後を継ぐ羽目になる、父と息子、そして家族愛を暴力の中で描き切った傑作。
男でこの映画が嫌いな奴はいないだろうし、数々の映画の中で引用された作品でもある。
はたして、この映画を見る時に、何を(何処を)見ればいいのか……。


十年前まで、この映画に対して僕はこんな事を思っていた。
ところがある日、ま、歳を取ったせいもあって、この映画の見方が変わった瞬間があった。それは、マイケルとケイの関係を見つめている時だった。

ここからは、完全に僕の独断と偏見、及び妄想で構成されています。

ある日、友人に、僕の『ゴッドファーザー』論を語ると、「お前の話を聞いてから、この映画を見るとお前の言う通りにしか見えなくなった。責任取れ!」と褒められた(怒られた、だろ…)。
その『ゴッドファーザー』論(?)とは……。
この映画は「赤と黒」と言う色使いで構成されているのは、プロローグを見れば気が付く。
真っ暗なタイトルバックに、ニーノ・ロータのスコアが流れた瞬間から映画の中に引きずり込まれる。
ニーノ・ロータのスコアはそれほどまでに素晴らしい。
そして、タキシードを着たドン・ビトー・コルレオーネことマーロン・ブランドの胸には真っ赤なバラが挿してある。
映像作家がオープニングに拘るのは当然と言えよう。しかも、この映画がどう言う方向性なのか、と言う事も表現したいはず。
赤は勿論「血」の色である。この血の色の赤は、劇中絶えず流される。
黒は、結婚式でタキシードを着た家族や招待客、つまり人間である。組織の人間は黒いスーツに身を包んでいるし、結婚式で着ていた黒い礼服はラストの葬儀の場面でも形を変えて着られている。
「赤と黒」と言えばスタンダールの小説を思い浮かべる。
赤は兵隊の服の色、黒は聖職者の服の色を表している。明らかに対比している。これは作者スタンダールが言及している訳ではなく、一般論として記す。
本好きで脚本も書くコッポラが「赤と黒」を知らないはずも無い。
家族愛と人殺し。
組織の構築と家族の崩壊。
父と息子。
そして、マイケルとケイ。
これは対比の構図を表している。
この映画で、一貫してまともな人間は誰だろうか?
僕が見たところ、ケイただ一人である。
それは、この組織の世界にあって当初部外者であり、事ある度に普通の事を当たり前のように話す。
つまり彼女はこの映画において良心なのだ。
このケイとマイケルの関係こそが、この映画を別の目線で展開できるのだ。
別目線で見ると何が見えるのか?
それは、マイケルと言う悪魔の誕生である。
この悪魔と言うのは、比喩的表現でもあるし、比喩的表現でもない。
角や、あの忌まわしい羽が生えていないだけで、人の仮面を被った悪魔のような人間は実在すると思うからだ。
警官から殴られたマイケルは、いとも簡単に人殺しを実行する。
他の警官から「彼は勲章も受けている立派な軍人」にあるまじき行為ではないか?
そして、逃亡先のシシリーで若い娘と結婚をする。ケイの事など全く忘れている。
そして彼女が爆死すると、ケイに再び寄り添う。「子供を生んで欲しい」と。
悪魔は簡単に嘘をつく。
そして、自分に反抗する者は、身内でも簡単に殺す。
父から受け継いだかのように見えるドンの座も、ソニーが殺されなければ有り得なかった。
ビトーが印象的なことを言っている。
「てっきりソニーが後を継ぐものだと思っていた……」だが殺された。
悪魔の心を徐々に覚醒するマイケルは、洗礼と言う浄化儀式に参列するが、このシーンが恐ろしい。
本来、罪を償う儀式とされて来た洗礼のシーンに、あえて人殺しのシーンをカットバックで見せると言う暴挙に出たコッポラ。
ユダヤ教信者(この洗礼はユダヤ教徒の方式で描かれている)からクレームがついたのは当然の事だが、ある程度予想が付いたはずだ。
この宗教上あってはならないシーンをあえて作り出したのは、悪魔としてのマイケル誕生の瞬間を衝撃的に見せたかったからではないのか?
そして、あのラストシーンである。
ケイは常に観客がうなずく様な行動をして来た。
最後の質問にも、マイケルは簡単に嘘をつく。優しさから?まさか。
後悔のかけらも見られないではないか。
そして、悪魔がはびこる世界から、人間を締め出すように、扉は閉じられる……。

お前の妄想だと言われれば、そうだと思う。
しかし、次に再見する機会があれば、マイケル悪魔説(?)を思い浮かべてこの映画を見て欲しい。
見えなかったものが、きっとそこにあるはずだ。
特に、マイケルを見る時のケイの表情は、前半と後半では全く違い、その瞳には悪魔が映っているように見える……。

ヒッチ先生、お願いします。

ヒッチ先生の採点表-5ツ星ー横
「ごちゃごちゃ言っとらんと、世紀の名画を楽しみなさい」

ケンさん、お疲れ様でした。次回の作品は僕がチョイスしますので、よろしくお願いします。

2010-08-21

『ゴッドファーザー』 ~【ブログDEロードショー】番外編~

今日の記事は、このブログを始めるズーっと前に存在したブログの記事の転載です。
何故今頃こんなものをアップするのかと言うと、今回の【ブログDEロードショー】にエントリーした『ゴッドファーザー』こそ、僕が劇場で見た初めての洋画と言う、とても思い出の深いものだからです。
番外編としてお楽しみ下さい。


<初体験は痛かった…?>

ボクの映画人生(ってどんな人生!)は35年前のこの映画から始まった。

この「ゴッドファーザー」は、生まれて初めて映画館で見た洋画。しかもボク自身、最初で最後のシネラマ体験。おまけにボクは、とんでもない初体験までしてしまった。
小6のボクは、母親が「面白い映画見に行こう。アメリカで大ヒットしたんだって!」と力説するもんだから、ワクワクしながら映画館に足を運んだ。ところが、映画館(大阪駅前にあったOS劇場)に行ってみると、チケット売り場には人、人、人の大行列。しかも映画館の入り口の扉も閉められていて、劇場関係者であろう人達が、ハンディスピーカーで、もっと端っこに寄れだとか、本日は入れ替え制(人気のある映画はよくやっていた)になっているとか叫んでいた。
ボクは母親がチケットを買って戻って来ると、最後尾にお行儀良く並んだ。
次の上映までまだ数時間ある。携帯ゲームや携帯電話などはSF映画の中にしか存在せず、ただずーっと立っていた。
この体験、後にトラウマとなって、ボクは並んで何かをする、と言うのが大嫌いになった。(どんなに美味しいラーメンでも、だっ!)
ようやく時間が過ぎて、映画館の中に入ると、ん?変なものがスクリーンの前から、最後列の入り口に近い所まで、2列で並べてある。
通路という通路全てに。

パイプ椅子である……。
ふかふかのシートのすぐ横にパイプ椅子……。席が足らなくて、臨時に置いただけのパイプ椅子……。
ボクはチケットに書かれている座席番号を見ながら自分の席を探した。
「おなじ料金を払ってパイプ椅子じゃぁシャレにならないよなぁ…、よっぽど運の悪い奴が座るんだろうなぁ……」と思いながら……。
そしてすぐに席は見つかった。最前列。しかもパイプ椅子……。
断っておくけど、シネラマ方式の劇場スクリーンと言うのは、常識を超えた大きさである。
最前列のボクの席の真横よりもさらに後ろへとスクリーンが回り込んでいる。どんな体勢を取ってもスクリーン全体はボクの視界には収まりきらない。
結局、小6のボクには難しすぎる内容と、最前列に加えてパイプ椅子と言う恩恵は、ボクのお尻を破壊するには充分すぎた。(しかも上映時間長っ!)
こうして、小6の時にボクは初体験(映画の!)を終えた。痛かった。
もちろん、この体験以降、パイプ椅子が嫌いになったのは言うまでもない……。




今読み返しても、あのお尻の痛さが蘇ってきます。時代とは言え、商魂たくましい大阪の劇場ならではの体験だったのでしょうか。他の地域の人は、こんな体験ってなかったんでしょうかね?
次回は本編で。

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